Spainfan

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アルカラ 3.4.01

3月2−3日(金、土)の二日間、スペインで日本語を教えている先生を対象に
国際交流基金から派遣されてきた専門家の先生が二人来られて日本語、日本文
化教育のセミナーがマドリッドであった。午前3時間、午後3時間と途中の休み
なしの集中講義でとても勉強になった。折角マドリッドに来るのだから是非家
にも遊びにいらっしゃいと同窓で同時通訳している川端さんからの誘いを受け
てお邪魔することにした。土曜日の夜はセミナーが終わってから三智子とチャ
マルティン駅で待ち合わせて川端家にタクシーで訪ねた。
彼女の家はアルカラ門の近くでマドリッドの中心にある。しばらくイエズス会
やオプス・デイなどの話題で団欒したあと近所のバルにでかけた。お正月の日
本人会の餅つき大会で今度はバルのはしごをしようと彼女の旦那であるペドロ
・ガジョから誘いを受けてもいた。
バルではナバッハという小刀のようなマテ貝やペルセベスという荒磯にいる貝
の貝柱などの珍味があって食べ始めたら止まらない。ちなみにペドロがそうい
う場合には"El comer y el rascar todo es empezar"というのだそうだ。
つまりカッパえびせんのことだ。

翌日は豪勢な朝飯をご馳走になって、さて、今日は生憎の雨模様だがどこかに
出かけようと言うことになったのだがもうマドリッド近辺は大方行ったことが
あって特に行きたいと言うところもないのだが、相談しているうちにアルカラ
・デ・エナレスに行ってみようと言うことになった。
マドリッドから車で30分くらいのところで一見の価値があるという。
ペドロ・ガジョの悠々迫らざる運転で雨の高速道路を飛ばして何時の間にかア
ルカラの町の中に入り込んでいた。中心の観光道路より一本裏の通りに駐車し
てまずはセルバンテス公園に向かう。市の中心道路は新潟の高田市の雁木のよ
うに雨天でも濡れないように歩道は覆われていて結構なのだが日曜日のことと
てお店は全て閉まっている。公園に出ると今は落葉して裸の楓の木がお互いに
手をつなぐような形で枝が横に広がって夏は木陰が出来て涼しいだろうと思われる。
アルカラ大学の正面にでる。この大学は1499年にカトリック教会と政治の権力
者であったフランシスコ会のシスネロス枢軸郷が教皇アレハンドロ四世から許
可をもらって創立したとかでフランシスコ会のシンボルであるコルドン(縄模様
が建物を縁取っている。
ある程度の人数がまとまらないと中に入れてくれないのだが丁度タイミングよく
ガイドの説明付きで見学することができた。
最初に大学のカピージャ(礼拝堂)に案内される。1500年から1512年にかけて
建てられた物だというが比較的新しいものにみえる。天井が釘一本使ってない
木製のムデハル様式で青、赤、金色の繊細なアラベスク模様でちょっと珍しい。
壁は明るい白色で横の右側がゴチック様式で左がプラテレスコ模様だ。これは
建築した時の流行がそれぞれ異なっていたためにそうなったのだそうだ。祭壇の
前にシスネロス枢軸郷の墓が置かれていて全て大理石で棺の台、棺、その蓋と
三段に亘って彫刻が施されている。棺の角には聖ヒエロニモ、聖グレゴリオの
像が彫られている。彫刻もいたんでいてナポレオンがスペインにやってきた時
にかなり色んな文化財を破壊していったそうだが此処もその被害にあっていた。
また、ナポレオンだけでなく受験学生がこのひつぎの大理石のかけらを削り取
って手にもって受験すると受かると言う言い伝えで学生が破壊した部分も大き
いと言っていた。祭壇の横に聖シスネロスが聖マリアにひざまずいている絵が
かけられていたのだがこれはコピーで本物はアメリカのヒューストンに持って
いかれたとの説明であった。
案内の女の子は相当早口で説明していたのだが発音がきれいで分かりやすい
スペイン語であった。
更に奥に進むとパティオにでた。周囲に学生寮があって右側には監獄があると
言う。一寸驚いたのだが学生寮の規則に違反したものは一晩この監獄で暮らす
のだそうだ。もっとも誰かのりんごを盗んで食べたとかの類のものだそうだが。
更に奥に進むとまたパティオに出、コレヒオ・メノールといって低学年の学生
寮などがある。この大学では16世紀、17世紀に栄えたとかで当時は学問の世界
は全てラテン語であったのだがそれをギリシャ語、ヘブライ語、アラメオ語
(メソポタミヤ北部からシリアにかけて住んでいた遊牧民族の西セム族の言葉)
の文献の相互翻訳などが行われたようだ。
ペドロ・ガジョによると11世紀から16世紀にかけてヨーロッパ各地で民族間
の抗争が繰り広げられていた時代に首都トレドの中だけはユダヤ教徒もキリス
ト教徒もイスラム教徒もそれぞれ住む場所はあちこち異なっていたのだが相互
の交流は盛んなものがあっていわば既にその頃のユネスコがトレドにあった。
アルカラも少し時代が遅れるがそのトレドと同じように民族間の交流が盛んで
あったという。ヨーロッパの中心はその当時トレドであり次いでアルカラであ
ったという。
次にパラニンフォという講堂に案内される。サラマンカ大学のパラニンフォより
素晴らしい感じだ。ここは公式行事などに使われる場所で学生が博士論文などの
発表などの時には中央の席で発表しその両側に指導教授が座る。発表は9時間に
及び約50人の教授がこれを聞いて質疑応答がなされるという。
イエズス会創始者のイグナシオ・デ・ロヨラ、劇作家のロペ・デ・ベガ、詩人の
ケベド、トマス・デ・ビジャヌエバなども此処で学んだという。
大学をでて歩いていると無料病院と言うのがあってふらりと入ってみた。随分
古い建物で屋根にはもう瓦の間から草がぼうぼうと生えている。二階に上がると
古い扉のまえに説明書が張ってあって1526年にイグナシオ・デ・ロヨラがこの
病院の台所で働いていたとある。病人の世話をボランティアでやっていたらしい。
扉は閉まっていて中には入れなかったがしばし聖イグナシオの若き日をしのんで
みる。
さて、丁度、昼飯の時間だが朝、豪勢な飯を食ったので腹が空いていない。でも
軽く何か食べようと言うことで一寸しゃれたバルに入った。血の腸詰め、メヒジ
ョンと言う貝、子羊の一番柔らかい肉、などなどで昼飯をたべた。
一寸昼寝でもしたいいい気分だがこのアルカラ・デ・ベナーレスにはかのセルバ
ンテスが生まれたと言う家があると言うので、いまだかってドンキ・ホーテなど
読んだこともないがせめてセルバンテスの生まれた家くらいは挨拶していかない
と申し訳ないので訪問することにする。
ちなみにセルバンテスはこのアルカラ・デ・エナレス大学で学んだが一時サラマ
ンカ大学でも勉強したそうだ。
外観はなかなか立派なものだ。レンガ造りの門を入るとすぐ右端に碑銘板が置か
れていて「かの健全なる片腕男、全ての名声を博した愉快な作家、詩才を楽しん
だ男、ミゲル・デ・セルバンテス・デ・サーベドラ此処に生まれる(1547)」
とかいてある。学生の頃に先生が片腕男と言うスペイン語を大きな声で云うのを
聞いて一寸恥ずかしい思いをしながらクスクス陰で笑っていた言葉がこのブロン
ズの碑銘に書かれている。
セルバンテスはかの有名なレパントの海戦に参加し片腕を失ったのだが生涯彼は
このことを名誉に思っていたそうだ。
セルバンテスは結構波乱万丈な生涯を送ったらしい。この海戦のあとトルコの海
賊に捕まってアルジェリアの監獄に5年間もぶち込まれていた。その間、4回も脱
獄を試みたがいずれも失敗し最後に金を積んで開放されたという。職を求めてア
ンダルシアに下ったのだがいわれのない罪を着せられてセビージャの監獄にもぶ
ちこまれたらしい。この間の孤独と悲しみの中でドンキ・ホーテの構想が練られ
ていたらしいのだ。
面白いことにセルバンテスは1616年4月23日にマドリッドで死んだのだが奇しくも
シェークスピアも同じ日に死んでいる。

この生家は長い間修復中との事で入れなかったそうだ。今は壁など一部が原型をと
どめるため古いレンガが剥き出しのところもあるが全てきれいに白壁が塗られている。
最初の部屋が居間のようでここにBraseroという火鉢がある。頑丈な木枠が彫刻さ
れて三段に組み立てられその上に金属製の洗面器のような器が乗せられている。
これにも彫刻が施されている。下の木枠の間から足が入れられるようになっている。
昔はこれで暖をとっていたのだろう。別の部屋にはすごく素朴な木枠のみの椅子が
置いてあった。五分もすれば尻が痛くなりそうな木枠である。別に女性が屯する居
間があって此処は赤と黄色の緞帳が壁に掛けられているがこれは昔の姿ではなさそう。
Rabelという中世のギター様の擦弦楽器がおいてある。そしてちょっと驚いたのだ
がこの時代に床に座る生活があったらしいのだ。床の上に敷物が敷いてあって糸紡
ぎなどしていた様子が窺われる。
二階に上がるとドンキ・ホーテの本が各国語に訳されたものが陳列してある。その
翻訳本の多さは聖書に次ぐものだという。日本のものもポケット版で陳列されていた。
中国語では堂吉可徳(ただし可にはごんべんがついていた)と訳されていた。その他、
ダリのドンキ・ホーテやグスタボ・ドレのイラストレーションなどが飾られている。
また、一角には糸操り人形などがあって子供のアトラクションもある。

外に出てカテドラルに行ってみる。外観は新しくみえる。正門のほうに回ってみると
こちらはかなり古い石壁があって彫刻などもかなり傷んでいる。時間が午後は6時以降
でないと中に入れないと言うのであきらめる。駐車している方向に向かって歩いてい
ると"Casa de Entrevista"という建物の前を通りかかった。この扉の中でイサベラ
女王とコロンブスが会見したのだという。確かイサベラ女王とコロンブスが契約に
調印したのはグラナダの近郊のサンタ・フェだと聞いていたのだがこのアルカラでの
会見はその前なのだ。
寒くはないが時々雨が降り風が強い。おおきなお城のような建物を左に見て此処も
訪問したいけど外観だけを見て通り過ぎる。案内書によるとここで狂女フアナの娘で
カルロス五世の妹のカタリーナ王女が生まれたところだと言う。彼女は後にイギリス
のヘンリー八世に嫁いだ。
かってイグナシオ・デ・ロヨラはこの王女カタリーナにかなわぬ恋の想いを寄せてい
たそうだ。まだ神学生の頃だろうか。
そういえばこのイグナシオ・デ・ロヨラは霊操という黙想方法を開発しサラマンカで
その普及を図っていたところドミニコ会のサン・エステバン修道院に拉致されて21日
間の厳しい尋問の末、「何が正しいか、何が正しくないかの判断は神に属する権限で
お前が判断してはならない」と言う条件で釈放されたという。失意のロヨラはサラマ
ンカでの布教を諦めパリにでてイエズス会を創設した。
いろんなところに歴史がうずもれているのを見ると少し興奮して益々歴史を勉強して
みたくなってくる。若い時に勉強してなかったことが今になってうれしい。
チャマルティン駅発6時10分発のサラマンカ行きの鈍行電車に乗るために駅まで送っ
てもらう。サラマンカには9時40分ころ着いた。
以上

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