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Spainfan
ユステ 2月25日
以前、かの広大な領土を支配していた神聖ローマ皇帝カルロス五世が晩年政治に疲れて隠遁したと言うユステに行ってみたいと言う思いがあって、このカーニバルの休みを利用していくことにした。なにが皇帝をしてそんな田舎に行かせたのか、一体何がそこにあるのかそれを見に行きたかった。愛車BMWの整備をして点火プラグとフィルターを取り替え、ガソリンを満タンにした。
旅のアレンジは三智子が担当し友達の四之宮さんを誘い一緒にいくことにした。
行程は25日(日曜日)朝9時出発、一路630号街道を南下しBejar, Prasenciaを通過して一気にカセレスまで行き、市内観光をした上で更に東に足を延ばしてTrujilloまで行き夕方にはPrasenciaに戻りそこのパラドールに宿泊。翌日は目的であるユステのモナステリオを訪問し少し足を延ばしてJarandilla のパラドールに行きその後は一路サラマンカに帰ってくるという予定である。
前日はテニスをやったあと洗車しこの車を買ってから初めてワックスをかけて磨き上げた。
早めの朝飯を食べてから9時20分に出発。天気は上々風もなし。
この街道はトラックに気をつけろとエンリケが言っていたのだが前後に全く車の影がない。ワンマン道路のようでどこかで何かがあったのかなと一寸気持ちが悪くなるくらいだ。40分くらいでハム・ソーセージの産地であるGuijueroを過ぎ一時間くらいでBejarにたどり着く。山脈に雪がかかっていてとてもいい景色だ。Prasenciaを過ぎCaceresには12時10分に到着。大王やしの植わっている公園の近くに駐車しプラーサマヨールのある町の中心らしき方向に向かって歩き始める。さっぱり方角が分からない。三智子と四之宮さんが以前、菅間君が残していってくれたミシェランの観光案内書を広げて近くで日向ぼっこしていたおじさん三人組に話し掛け案内書の地図を示しながらどちらに行ったらいいかと聞いている。とにかくおじさんたちが言っていることは「この道を真っ直ぐに行けば突当るよ」といっているのだが二人は何か納得しないで聞いている。後で分かったことだが違う町の地図を示してこの路がどうだとかいって聞いていたものらしい。いくら土地のおっさんにしても違う町の地図を示されてどの道かと言われても教え様がないではないか。
カセレスの町はアラブ人が作ったと言われる城壁に囲まれ旧市内には窓の小さい石造りの黄土色の建物が立ち並び細い露地が迷路のように入り組んでいる。この城壁内の町も世界文化遺産になっていると言うことだ。
サン・マテオ教会、その隣にコウノトリの家なるものがあって低い屋根の上に何羽ものコウノトリが住んでいる。またこの二つの建物の間のはるかかなたに地平線が見えていてこういう風景はちょっと日本にはないと思う。このサン・マテオ広場から少し坂を下ったところにアラブ人が住んでいた家がMuseo(博物館)になっていて200ぺセータで家の中を見せてくれる。すごくきつい香の匂いがして出てきてしまった。観光案内書に載っている写真の場所を探して右往左往するがどうやらプラーサ・マジョールに面しているホテルの2階くらいの高さから撮ったものらしいことが分かった。少々腹もすいて来たので適当な場所を探す。プラーサ・マジョールにテラスを出しているMeson los Portalezと言うところで座ろうとすると後ろから背中をつつくものがいる。ふと振り返るとサラマンカのフォンセカでカマレロ(給仕)をしていたエウヘニオが奥さんと立っていた。こんなところでばったりと、なんと言う偶然。
さて、いつもならシエスタで眠くなるところだがこれから更に東に48kmのTrujilloに向かうこととする。
ここは三智子の絵友達であるプリの出身地で「カセレスに行くのなら是非Trujilloにも行きなさい、此処はスペインでも最も美しい、いい町だ」と言われていたところだ。
Centro Ciudad の看板を頼りに町の中心に向かって細い露地を車で入り込んでいくとパッとプラーサ・マジョールの広場の真中に入り込んでしまった。ちょうど駐車場になっていてそこに車を止める。400ペセータだと言うので何時間だ?と聞いたら何時まででもオーケーだという。24時間オーケーかと聞いたら勝手にしろというので多分幾日でも良いに違いない。すぐに観光案内所に行き街の地図をもらう。広場の真中に大きな銅像がたっている。これがあのインカ帝国のアタウアルパ・ユパンキを滅ぼしてペルーを征服したピサロの像だ。記憶に間違いなければ確かこのピサロが28騎の騎馬でユパンキをだまして滅ぼしてしまったのだという。この田舎町で豚など飼っていた牧童のピサロが今から500年も前に何に導かれて大西洋を渡りペルーまで遠征していったのか不思議な気がする。稀有壮大な男がスペインにはいたのだ。
トルヒージョの一番高いところにお城があった跡がありそこに上ってみる。四方に見晴らしが開けて絶景である。傍には龍舌蘭があってやはりサラマンカに比べるとちょっと南だけに気候は暖かそうだ。しかし今日の陽光から察するに夏は暑いだろうなあ。

さて、バルに入ってカマレロに聞くとプラセンシアにはマドリッドに通じた高速道路にのり途中アルマラスの街で降りそこから県道108号を西に行けばたどり着くという。アルマラスの街に下りる必要もなかったのだが入り込んでしまった。街の中は「真昼の決闘」のシーンを思わせるような乾いた町で道には人っ子一人見当たらない。
街の出口近くで老人が4人軒下で話しこんでいるのを見つけて道を聞く。とても親切に教えてくれた。途中太陽が傾き地平線の正面から強烈に照らしてくる。おまけに磨きたてのボンネットに太陽が反射してまともに正面を見ていられない。三智子に手渡してあったはずのサングラスがどこに隠れてしまったのか出てこない。
幸いこの道路も空いていて前後に車が全然いない。
暗くなる直前にプラセンしアに入る。Paradorの看板を頼りに随分右折左折を繰り返した後たどり着いた。昔の僧院を改造してParadorにしたもので玄関脇に銅版がかけられていてそこには2000年2月16日開館したと記してある。新しい4つ星の国営ホテルだ。
チェックインして部屋に入るとなかなか立派なスイートルームだ。室内は暖房も効いていて洗面所など設備もかなり新しく近代的でとても外観の古さからは窺い知れないほど居心地のいいものだ。庭にはアラブ様式に似せた庭園に明かりが灯っていて感じがいい。
未だ夕食には時間があると言うので街に散歩に出ようと玄関口に差し掛かると何と秘書のエレーナが恋人と入ってくるのに出くわした。思わず大きく両手を広げて驚いてしまった。
いつもはそんな事しないのだが懐かしさと驚きとで両方のほっぺにキスをしてしまった。

今、ヨーロッパでは狂牛病騒ぎで牛肉を食べる人が少なくなった。パラドールの食堂ではメニューに断り書きがあって「牛肉はすべて生後24ヶ月以内の牛の肉で安全です」と書いてある。この時期に牛肉を食べる奴はMuy valiente(随分勇気がある)と言われるのだが僕は迷わずビフテキにする。

翌日はプラセンシアの街をプラプラ散歩する。サン・エステバン教会を見、すぐ近くにサンタ・クララ教会があり、少し下がったところにカテドラルがあった。尖塔はゴチックらしくみえ窓などの形はロマネスクらしくみえる。ロマネスクからゴチックへの転換期に亘って建てられたのだろう。中に入ると丁度ミサが行われていた。床の石が凸凹でかなり古い建物だ。

いよいよユステ行きだ。県道203を東に進む。この日も道は空いていて天気も良し。しばらく行くと前方左側に雪をかぶった山脈が見えてくる。周囲は牧場と果樹園が広がっている。いくつかの村を過ぎてCuacos de Yusteの村にさしかかり案内板を見つけ、左折して山を上っていくとPalacio de Carlos V y Monasterio de Yusteに着いた。20台ばかりの車が駐車している。観光バスはいない。車を降りると清涼ないくらか冷ややかな空気が身体を包む。そして初春を思わせる小さな花が咲いている。思わず深呼吸をする。そうだ、この空気がカルロス五世をひきつけたに違いない。後ろに雪をかぶった山並みがあって南に広く開かれた山の中腹に建てられ隠遁所としてはかなりふさわしい雰囲気だ。建物の前にプールみたいな池があって白鳥と黒鳥がいる。少し離れたところに山から流れ落ちる水の音がしている。
周囲は落葉樹に囲まれていて今は全て枯れ木だが夏頃には緑に囲まれた木陰がすずしいだろうと思われる。屋敷の入り口に上っていくごろごろの石畳さえ何かものを思わせるものがある。玄関先から南に一望に開けた眺望は素晴らしくカルロス五世はこの地の果てまで俺のものだと思ったかどうか。
しかし19歳で神聖ローマ帝国皇帝になってからフランスと戦火を交えること4回、オスマン・トルコとは地中海の制海権を巡っての戦い、フランドル地方を中心としたプロテスタントの反抗、内部ではバレンシア、マジョルカの反乱などなど通風に糖尿病の皇帝にとっては心の平安というものはなかったであろう。
建物の中に入ろうとすると閉まっていて9時半から12時半までで午後は15時から18時までとなっている。残念だが先にJarandillaのパラドールに行って昼飯を食べその帰りにもう一度立ち寄ることにする。
このパラドールにはカルロス五世がユステのモナステリオに入る前にしばらくこの小城で過ごしたことが銅版に記録されている。それによると1556年11月12日から翌年の2月3日まで滞在したとある。玄関先にカルロス五世の象徴である双頭の鷲の大きな石の紋章がかけられてあった。中庭に小さな石の池があってきれいな水が流れ込んでいる。その奥に食堂がある。かなりもう人が入っている。
朝はバイキングの朝食をいつもより贅沢に食べてきたのだがこういう雰囲気になると又新たに食欲が湧いてきて三智子たちはもう軽くて良いと言っているのだが僕は肉の焼いたのの盛り合わせを頼む。焼き豚もうまかったがCabrito(小やぎの肉)がとてもうまかった。
すっかり食事を楽しんでいるうちに時間がたってもう4時近くになってしまった。急いでユステに引き返すことにする。
もと来た道をたどってモナステリオにつくと建物の入り口が閉まっていて一瞬ダメかと思ったのだがしばらく待てと書いてある。周囲の風景など眺めていると警備員の若い男が現れてどこからきたのかとか三智子たちのスペイン語会話応用編の時間みたいだ。
やがて100ペセータの入場料で内部に案内してもらう。
この僧院はヘロニモ会のものであったがカルロス五世の命令で隠遁所として建設されたがわずか4部屋の質素なものである。最初に通された部屋は居間で謁見のための小さな机が一つ、二つの小さな窓から明かりが入るが壁際は全て黒いカーテンがかけられ電気のなかった時代にろうそくだけでは何と陰気で暗い部屋だったろう。暖炉がひとつ、壁には彼の妻だったポルトガル王女イサベルの肖像画とヘロニモの絵が二枚かけられているだけだ。
次の間は食堂であるがこれがまたいとも質素なもので肖像画に描かれている時計の実物が壁際に置かれていたがカルロス五世は時計の収集家でもあった由。また彼は糖尿病や通風を患っており歩けなくて木の箱を担がせて旅をしていたようで、その木の箱が片隅においてあったのだがこれもなんと言う粗末なものか。まさに下半身棺桶に突っ込んでいるようなものだ。最後に寝室に通されたのだが片隅にベッドが置いてある。そこに横たわると足元右の方に斜めに通路が開かれていてその通路から隣の教会の祭壇がみえ、寝ながらにしてミサが聞けるようになっている。そして司祭がこのベッドまで御聖体を運んで来てくれたのだろう。この教会に入ってみたのだがかなり立派な教会内部でゴチック様式の祭壇のレタブロはアントニオ・デ・セグラが描いたといわれるが白い布をまとったカルロス五世とその妻イサベル、その後ろにフェリペ二世が描かれている。
カルロス五世は1500年に生まれ1519年に皇帝になり1556年に息子のフェリペ二世に譲りこのモナステリオには1557年の2月に来て翌年1558年9月21日に死んだと言う。わずか一年半の平和な日々だったのだろう。

途中Jaraizの小さな村を通り過ぎようと村に入ってくると急に前方の道がふさがっている。近づいてみると何と日本の着物のようなものを着てちょんまげ頭や田植え笠のような帽子を被ってカーニバルの踊りの行列に出くわしたのだ。皆が手を振っている。僕達が日本人だと分かったようだ。こんな田舎で。
帰路はBejar近くのBanos de Montemayor付近で少しトラックの渋滞に巻き込まれたがそれを抜けると順調で左側に壮大な夕焼けを見ながらサラマンカには丁度暗くなる寸前にたどり着いた。                           以上。


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